■白神山地の歴史記録

 ■白神山地周辺の歴史

  白神山地周辺からは、縄文時代の遺跡が発掘されている。日本海側では、鰺ヶ沢から深浦岩崎にかけての海岸段丘上に、西目屋には岩木川沿い台地に発見されている。その後は平安時代の西目屋には土師器,須恵器、岩崎には竪穴群。鎌倉時代には根城南部氏(現八戸市)が津軽地方にも勢力拡大し目谷郷(現西目屋村)も支配。その後南部一支族の大浦氏が鰺ヶ沢町種里に城を築き、為信(のち津軽氏に改名)の代に津軽を統一し、弘前藩が白神山地の青森県側を秋田藩が秋田側を支配。江戸時代の弘前藩時代は絵図、菅江真澄「遊覧記」(旅日記、地誌、随筆、図絵集)、尾太鉱山史がある。明治に入り、2~3年に藩有林、社寺有林が官林となり、同32年に国有林野法の制定で44年に計画的森林施業の実施、戦中戦後の薪炭,鉱業と藩政時代から終戦後まで木材需要の増大で伐採され、二次林のブナ林が広がった。昭和30年以降ブナから杉等穂の樹種転換、同46年白神山地及び周辺は水源涵養保安林指定、同47年津軽十二湖自然休養林、同48年ブナ天然更新、同62年自然観察教育林、平成2年世界遺産から白神山地森林生態系保護地域設定された。(東北森林管理局レポートから)

 ★「水上遺跡」(西目屋村砂子瀬)「餅ノ沢遺跡」(鰺ヶ沢町立石)「津山遺跡」(深浦町驫木)


白神山地の上記絵図、山地のランドマークとしての白神岳画

  1645年(正保2年)「陸奥国津軽郡之絵図」(青森県立郷土館・蔵)に“しらかみの嶽”

  1644~48(正保)国絵図、1648~52(慶安年中)「御群中絵図」に“白神ヵ嶽”

  17世紀「元禄国絵図」(弘前市立図書館・蔵) 19世紀「天保国絵図」(国立公文書館・蔵)

   これらの絵図から「白神岳」は中世以来の名称とされるとしている。

  この後は、弘前藩文献に「陸奥国津軽領大図」「沢絵図」に“白神嵩”が記載及び描かれ、

   そして、諸国遊覧を画と随筆で残した“菅江真澄”』が『遊覧記』て゛白神岳や暗門の滝などのこと

  を絵図や随筆で残している。

  ※「菅江真澄」(1754~1829)三河牟呂村(現愛知県豊橋市)の裕福な農家に生まれ、国学や本

  草学、和歌を学び、1783年30歳にに故郷を離れ、諸国漫遊の旅に出る。信濃~越後~東北~蝦

  夷を回り、『遊覧記』と総称される著作を200冊残した。

   青森県には、1785年(天明5年)に深浦町岩崎大間越の関所から入り、丁度、天明の大飢饉の

  惨状を書きとめ、その後、岩手県、宮城県の南部領、仙台領で過ごし、再び1788年(天明8年)に

  津軽を訪れ、三厩から蝦夷地(北海道)に渡り、4年間ほど漫遊した後、戻り、下北半島を2年半漫

  遊し、「奥の浦うら」「おぶちの牧」旅日記を残している。1795年(寛政7年)に再び津軽を訪れ、漫

  遊後、1798年44歳のとき、津軽藩校稽古館の薬物掛として採用されるが、江戸幕府に知られて

  はまずいケシの栽培記録をしたことから、一時幽閉され、46歳で放免された。その後も1801年(享

  和元年)までこの地で絵図等を書き残し、その後、秋田に移り、没するまで秋田で過ごしたという。

   「外浜奇勝」で、岩木山、十三湖、暗門の滝など「雪のもろ滝」「津軽のおち」で西目屋村の乳ケ

  滝などの各絵図を残している。

          (白神ビジターセンター資料、弘前大学長谷川成一教授研修資料等から)