はじめに

 世界遺産・白神山地紹介のホームページはたくさんあります。しかし、公のパンフレットのようなもの、更新がほとんどされていないもの、業務案内中心のもの、リンク紹介はあるものの連携されていない、などからたくさんのホームページを検索しなければならないと思います。これらをまとめ、ある程度総合的にわかるものを目指したいとたいと考えています。

 白神山地は世界遺産となって20年を経過しました。時間の経緯とともに、なぜ白神山地に青秋林道建設計画が持ち上がったのか、反対運動が起きたのか、どのようにして建設廃止が決まったのか、世界遺産後はどう変わったのかを知っていただき、再認識しくしていただき、白神山地への来訪、再訪時の理解、思いの一助、ふれあいのきっかけとなれば幸いです。

 また、一般には白神山地への登山や各河川の源流部などに入るのは中々難しい方もおられると思います。これまで取り溜めた写真を通して白神山地を楽しんでいただければ幸いです。

■ 「青秋林道」建設計画の発端~反対運動展開~建設中止~世界遺産申請・登録までの経緯

 

  ●名も無き静かな山地が・・・・ 

 遺産前の白神山地は、青森県では西部山地とか弘西山地(弘前市より西の意)などと正式名はなく、現西目屋村側では「暗門の滝」が幻の滝としてわずかに知られ、西海岸側では「白神岳」「十二湖」が知られていました。

 それ以前は、江戸時代の旅行家・菅江真澄氏が津軽藩に一時召し抱えられて、尾太鉱山などのスケッチ画、紀行文が「菅江真澄遊覧記」として、当時の状況資料として残されています。

 白神山地は、世界遺産などと注目される存在でなく、静かな山地であった。白神山地名は、作家・根深誠氏が「青森県自然保護の会」とともに反対運動の展開に当たり、同山地は法的網を被っていないことから、“自然環境保全法”の地域指定を骨子にしようということとなり、その中で「白神山地」という名称を使ったのがはじまりとのことです。なお、一部の本に現に「白神山地」と記載されたものがあり、それを使ったとのことです。


 「青秋林道建設計画」の発端は・・・・過疎、財政、企業支援・・・・

 さて、「青秋林道」の建設は、元秋田県八森町(現八峰町八森・・青森県との隣接地)の当時の後藤茂司町長が、役場職員当時から開発を検討し、町長選の公約として掲げて当選1期目に実現に向け,1978年に青森県側の西目屋村長ほか白神山地町村長に、秋田県側との“交流”を目的に林道建設に協力いただきたいと働きかけ、同意を得て、県・林野庁等に申請し「青秋林道」建設が始まった。 

(青秋林道計画内容)

当初計画・・・全長28.1km(青森側18.9km+秋田県側9.2km)10カ年計画で総事業費28億5千万円

変更後・・・・・全長29.6km、予算増額内容不明。 

 (ポイント)

八森町の広葉樹林は切りつくされ、青森県側同山地にはまだ無尽蔵にあることから林道建設によって伐採・搬出時に当町にも恩恵があると町議会に説明し、始まったと八森町議会議事録に記載されているとのことです。 

●林道建設は、各町村事業にとって土建業の占める役割が大きい事業であること。

●西目屋村には、当時目屋ダム建設に伴って移転させられた人たちの代替補償地の一つに同町の大川沿い国有林伐採地があてがわれたが、林道が無く利用しづらいということから村に林道建設の陳情がされていたことから、これを青秋林道計画に合わせたいと考えたこと。

●当初計画は八森町から秋田県藤里町を通り、西目屋村の大川沿いに通すこととなっていたので、青森県の西目屋村以外の町村は、林道計画地に直接関わっていないことから賛同したこと。


  「青秋林道計画が動き出す」

 林道計画は、八森町の主導で、白神山地に係る西目屋村、鰺ヶ沢町、深浦町、岩崎村(現深浦町岩崎)の同意を得て、「青秋県境奥地開発林道開設促進期成同盟会」を組織し、両県庁、国有林地である林野庁より「青秋林道建設計画」として正式に承認され動き出した。

 (ポイント)

●林野庁は、森林の価値は木材価格であり、森林の活用という意識が当時は薄かった。


 「青秋林道建設反対運動が展開される」・・・・忌まわしい過去が再び・・・・頑張る人がいた・・・・

 その後は、メディア等で多数取り上げられご承知の方々が多いと思いますが、根深誠氏や秋田自然保護の会、弘前野鳥の会などがこの計画を知って、中止要望書を提出。その後合同会議を開催し、全国レベルの反対運動を決定。 さらに10団体で「青秋林道に反対する連絡協議会」を結成。

 これに全国組織である日本自然保護協会、日本山岳会、日本野鳥の会などが呼応し、全国団体による見直し申し入れが行われ、全国的報道がされることとなった。

 この間に、秋田県側では、同県藤里町経由に対し同町の粕毛川源流部に影響があるとし同町の鎌田孝一氏らが反対運動を展開され、秋田営林局は青森県鰺ヶ沢町の同山地奥地の一部を通るルートに変更する計画を発表。 これに青森県側は強く反発し、反対運動は変更地としての影響がある可能性が高い同県鰺ヶ沢町赤石川流域を主戦場として住民を巻き込んでの反対運動が展開された。また、全国的レベルでの反対用法が出された。 赤石川の多くの住民を含む「異議意見書」が青森県庁に提出され工事凍結を求めた。この「異議意見書」は、全国からも集まり最終総数13,202通に達し、提出された。 

 (ポイント)

当初計画は八森町から同県の藤里町を通り、青森県西目屋に至るルートであったが、藤里町ではルート下に粕毛川があり、河川の汚れ等から反対運動が展開されたことから、青森県の鰺ヶ沢町の奥赤石側を通るルートに計画変更された。

●計画変更は、事前告知もなく、同町ルートに変更されたことから、鰺ヶ沢町赤石川住民は、以前に弘西林道(弘前~西津軽郡岩崎町・現深浦町岩崎)建設や奥赤石林道の建設により、死者を出す大水害や度々おこる土砂崩れで汚水被害に合っていたことと、東北電力十二湖発電所への取水のための赤石川→追良瀬川→笹内川に至る白神山地下に隧道建設され、その取水合流水が十二湖発電に利用され、赤石川下流は取水で水量不足による名物の金アユの漁獲数が少なくなった、下流の海で魚が採れなくなったなどで、これまでも不満を抱えていた。今も東北電力に見直し要望をしている。

●青森県の鰺ヶ沢町を通る工事は青森県でなく秋田県が行い、完成後も八森町が維持管理する計画となっていた。林道建設は鰺ヶ沢町にとって何のメリットもなく、デメリットばかりの計画変更であったこと。

●自然保護の象徴となった「クマゲラ」の営巣がこの赤石川源流部の奥赤石林道終点地の櫛石山山中で見つかったこと。クマゲラは環境省絶滅危惧Ⅱ類指定で北海道にはかなり生息するが、本州は絶滅危惧最高Aランク指定となっている。


  「青森県知事、建設の凍結を宣言」・・・・知識・常識人がいた・・・・変わり身の早さも常識・・・・

 この間に、秋田県側は後戻りできないように県境まで着々と林道を建設し、県境まで到達し、青森県側の早期建設を求めた。当時の北村青森県知事は、反対運動、異議意見書からも実態を調査し、結果、林道建設はメリットよりデメリットの方が大きいと判断し、1987年12月凍結決定をした。実に計画から10年の長い歳月であった。  

 これにより秋田県も柔軟姿勢に転じざるを得ず、1989年1月両県による林道建設中止を発表した。同年4月林野庁は工事断念を表明し、青森・秋田両営林署が「白神山地を森林生態系保護地域」に設定する方針を発表・方向転換を行った。

 (ポイント)

●全国的展開により、反対運動が盛り上がり、世界的ブナ林の価値が広く認められたこと。

●青森県側にとって林道建設は、脆く崩れやすい地質の山地において、完成後の修復工事や冬季間林道閉鎖等を勘案すればデメリットの方が大きく、建設理由の地域交流は、現白神ライン、その後建設した藤里町との林道(白神山地内遺産地域外)で、交流問題は解決できると判断。

●八森町長の「交流」という言葉で、青森県側の町村長が安易に同意したこともわかり、また秋田県においても中断となると補助金返還等の問題が生じることから何としても進めたかったことなどがわかってきたこと。このため、青森県は、「休止」とし、補助金返還をせずに「中止」措置に転換するようにした。


 「世界遺産申請から遺産登録へとトントン拍子に価値認められる」・・・・価値は後世へ・・・・

 日本自然保護協会が世界遺産候補地として推薦書を国に提出し、国も広大なブナ林であり、人為的影響をほとんど受けていない原生的な山地であることを認め、進めるとした。両県は推進を発表し、衆参両院に要望書を提出し、1992年に閣議決定され、ユネスコに屋久島とともに申請書を提出し、翌1993年12月登録決定された。                   (参考図書 「白神山地~森は甦るか」 河北新報・記者 佐藤正明 著、「日本のクマゲラ」藤井忠志 著)